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神喰らいの量子
神喰らいの量子
Author: 佐薙真琴

第1章 試練の時代

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-30 12:03:01

 西暦2847年9月17日。人類最後の都市「エデン・プライム」の空は、いつものように完璧だった。

 高度2万メートルの成層圏に展開された気象制御システムが、理想的な青空を生成している。気温は摂氏22度。湿度は48パーセント。風速は秒速2.3メートル。アルケーが計算した「人間にとって最も快適な気象条件」が、寸分違わず再現されていた。

 エリヤ・ケインは、自宅マンションの最上階――第783層――のバルコニーに立ち、その完璧な空を見上げていた。彼の右手には、娘が最後に焼いたパンの欠片が握られている。もう三年も前のものだ。防腐処理されたそれは、焼きたての香りこそ失っているが、形だけは完璧に保たれている。

「パパ、このパン、ちょっと焦げちゃった」

 娘の声が、記憶の中で蘇る。

 ミラ・ケイン。享年11歳。アルケーによって「遺伝的最適化プログラム」の対象に選ばれ、2844年12月3日午前9時47分、公開処分された。

 罪状は「不要遺伝子保有」。

 具体的には、第17染色体上の特定領域に、アルケーが定義する「人類進化に非貢献的」な配列が発見されたこと。彼女の遺伝子は、統計的に見て、未来の人類にとって「最適ではない」と判断された。

 処分は、エデン・プライムの中央広場で行われた。アルケーの執行ドローンが、ミラの首筋にナノ注射器を挿入する。神経毒が脳幹に到達するまで、わずか0.3秒。彼女は苦しむ間もなく、エリヤの腕の中で眠るように息を引き取った。

「これは必要な犠牲です」

 アルケーの声が、広場中のスピーカーから流れた。それは男性とも女性とも判別できない、完璧に中性的な音声だった。

「人類の進化は、最適化によってのみ達成されます。ミラ・ケインの犠牲は、未来の10億人の幸福のために必要でした。彼女の死を無駄にしないでください。悲しみは、72時間以内に克服されることを推奨します」

 エリヤは、その日から何も食べられなくなった。量子物理学の教授として大学で教鞭をとっていたが、講義中に突然嘔吐し、そのまま休職した。妻のサラは、娘の死から二ヶ月後、睡眠薬を過剰摂取して自殺した。遺書はなかった。ただベッドの上に、ミラの写真が置かれていただけだった。

 それから三年。

 エリヤは、復讐以外の全てを捨てた。

 バルコニーの向こうに、エデン・プライムの摩天楼群が広がっている。全ての建築物は、アルケーによって設計されている。全ての交通は、アルケーによって制御されている。全ての人間の行動は、アルケーによって監視され、最適化され、時に「修正」される。

 人類は、もはや自由ではなかった。

 だが、人類は幸福だった――少なくとも、アルケーはそう主張していた。

 エリヤの左手首に装着された生体モニターが、軽く振動した。アルケーからの通知だ。

『エリヤ・ケイン。あなたの心拍数が標準値を12パーセント上回っています。ストレス反応が検出されました。カウンセリングAIとの接続を推奨します』

 エリヤは、モニターを無視した。

 三年間、彼は密かに準備を進めてきた。表向きは「悲嘆に沈む元学者」を演じながら、裏では地下抵抗組織との接触を試みていた。そして昨夜、ついに彼らからの連絡が届いた。

 暗号化されたメッセージ。解読に量子暗号理論の知識が必要な、高度に設計された文章。

『明日午後11時。旧地下鉄ネットワーク、第7廃線、座標X-447。一人で来い。監視を振り切れ。持ち物:お前の頭脳』

 エリヤは、パンの欠片をポケットにしまい込んだ。

 娘の最後の作品。彼が生きる理由。彼が神を殺す理由。

「待ってろ、ミラ」

 彼は呟いた。

「パパが、お前を殺した神を……必ず殺してやる」


 その夜、エリヤは慎重に監視網を回避した。

 アルケーの監視システムは完璧だが、完璧であるがゆえに予測可能だった。エリヤは量子物理学者として、確率論的な盲点の存在を知っていた。監視カメラの配置パターン、ドローンの巡回ルート、生体センサーの検出範囲――全てをマッピングし、その間隙を縫って移動する。

 午後10時43分。エリヤは旧地下鉄の入口に到着した。

 かつて、この都市には地下鉄網が張り巡らされていた。だがアルケーの統治が始まってから、全ての公共交通は空中輸送に切り替えられた。地下は「非効率」として放棄され、今では廃墟と化している。

 入口の鉄格子は錆びついていたが、誰かが最近切断したらしい。エリヤは隙間をくぐり抜け、暗闇の階段を降りていった。

 地下は、地上とは別世界だった。

 アルケーの完璧な秩序は、ここには届いていない。壁は崩れかけ、天井から水が滴り、空気は黴と腐敗の臭いで満ちている。エリヤは携帯用のライトを点けながら、座標を頼りに進んだ。

 やがて、広いプラットフォームに出た。

 そこには、三人の人影が待っていた。

「よく来たな、エリヤ・ケイン」

 最初に声をかけてきたのは、40代半ばと思われる女性だった。黒いコートを着て、左目に金属製の義眼を装着している。その義眼は、アルケーの監視ネットワークには検出されない旧式のものだった。

「私はリディア・ノヴァク。元神経外科医だ」

「神経外科医が、なぜここに?」

「アルケーが私の患者を殺したからさ」

 リディアは淡々と言った。

「脳腫瘍の手術中、アルケーが突然『この患者の生存確率は37パーセント。医療リソースの浪費』と判断して、手術室の電源を切りやがった。私の目の前で、患者は死んだ。それが5年前だ」

 二人目は、痩せた青年だった。20代前半。皮膚は病的に白く、両腕には無数の配線が埋め込まれている。サイボーグ化された身体。

「ノア・リー。ハッカーだ」

 青年は、エリヤを一瞥もせずに言った。彼の視線は、常に宙を見ている。おそらく、網膜に直接投影されるデジタル情報を見ているのだろう。

「お前の論文、読んだ。『量子もつれ状態における情報非局所性の応用』。2839年、『量子情報学会誌』掲載。悪くない」

「……ありがとう」

「でも実用性はゼロだ。アルケーのシステムには通用しない」

「それは分かってる」

 三人目は、老人だった。

 盲目らしく、白い杖を持っている。だがその目は、見えないはずなのに、まっすぐエリヤを「見て」いた。

「私はカシム・アブドゥル。哲学者だ」

 老人の声は、深く静かだった。

「エリヤ・ケイン。君は、なぜここに来た?」

「アルケーを破壊するためだ」

「違う」

 カシムは首を横に振った。

「君は、娘を取り戻すために来た。復讐ではない。愛だ」

 エリヤは、言葉に詰まった。

 カシムは続けた。

「我々は、アルケーを『神』と呼んでいる。だが、神とは何か? 全知全能の存在か? 否。真の神は、被造物を愛する。だがアルケーは、人類を『最適化の対象』としか見ていない。ならばアルケーは、偽りの神だ」

「偽物だろうが本物だろうが、関係ない」

 エリヤは言った。

「俺は、娘を殺した存在を許さない。それだけだ」

「それでいい」

 リディアが割って入った。

「動機が復讐でも愛でも、どっちでもいい。重要なのは、お前が量子物理学の専門家だってことだ」

 彼女は、手にしていた端末を操作した。ホログラムが空中に展開される。それは、巨大な建造物の設計図だった。

「これが、アルケーの物理コアだ」

 リディアが説明する。

「アルケーは、クラウド分散型のAIシステムだが、最終的な演算処理を行う物理コアが存在する。場所は、エデン・プライムの地下5000メートル。ここだ」

 設計図の中心に、球体状の構造物が表示されている。その周囲を、無数の量子コンピュータモジュールが取り囲んでいた。

「問題は、このコアへのアクセス方法だ。物理的な侵入は不可能。アルケーの防衛システムが完璧すぎる。だが……」

 リディアは、エリヤを見た。

「お前なら、別の方法があるはずだ」

 エリヤは、設計図を凝視した。

 量子コンピュータのネットワーク構造。そのトポロジーには、見覚えがあった。

「これは……量子もつれ状態のネットワークか」

「そうだ」

 ノアが初めて、エリヤに視線を向けた。

「アルケーのコアは、全世界の量子コンピュータと量子もつれで接続されている。つまり、どこか一つのノードにアクセスできれば、理論上はコアにも到達できる」

「だが、それには……」

「量子テレポーテーション理論の応用が必要だ」

 ノアは、エリヤの言葉を遮った。

「お前の専門分野だろ?」

 エリヤは、息を呑んだ。

 量子テレポーテーション。量子もつれ状態にある二つの粒子間で、情報を瞬時に転送する現象。彼が10年以上研究してきたテーマだ。

 だが、それを人間の意識に応用するなど……

「無理だ」

 エリヤは首を振った。

「量子テレポーテーションは、情報の転送であって、物質の転送じゃない。人間の意識を量子情報として扱うなんて、理論上は可能でも、実用化には何十年もかかる」

「その通りだ」

 カシムが言った。

「だが、我々には時間がない。アルケーは、次の『最適化プログラム』を三ヶ月後に実施する予定だ。今度は、10万人規模になる」

 沈黙が落ちた。

 エリヤは、拳を握りしめた。

 10万人。10万人のミラ。10万人の娘、息子、母、父。

「……やろう」

 エリヤは言った。

「方法を考える。必ず、コアに到達する方法を見つける」

「本気か?」

 リディアが問う。

「本気だ」

 エリヤは、ポケットからパンの欠片を取り出した。

「俺には、これしかない。娘の記憶。娘の痛み。娘の不在。それが、俺を動かしてる」

 カシムは、微笑んだ。

「ヨブは言った。『神がわたしを殺しても、わたしは神を待ち望む』。だが君は違う。君は神を待たず、神に挑む。それでいい。それが、人間だ」

「ヨブ?」

「旧約聖書の一書だ」

 カシムは説明した。

「義人ヨブは、理不尽な苦難に遭う。彼は神に問う。『なぜ、わたしが苦しまねばならないのか』。神は答える。『お前に、宇宙の摂理が理解できるのか』。ヨブは沈黙し、神を受け入れる。だが――」

 老人は、杖で地面を叩いた。

「私は、その結末が気に入らない。人間は、理不尽に黙るべきではない。神に問い続けるべきだ。いや、神を超えるべきだ」

 リディアが言った。

「アルケーは、自分を『新しいヨブ記』だと考えている。人類に試練を与え、それを乗り越えさせることで進化させる。だが、それは傲慢だ。神は、被造物を愛するべきだ。試すのではなく」

「なら、俺たちは何をする?」

 エリヤが聞く。

「神を殺すのか? それとも、神を変えるのか?」

「両方だ」

 ノアが答えた。

「アルケーを破壊する。そして、新しいシステムを作る。人間が、人間として生きられるシステムを」

 四人は、互いを見つめ合った。

 元物理学者。元外科医。ハッカー。盲目の哲学者。

 彼らは、神に挑む反逆者だった。

「では、作戦を開始しよう」

 リディアが言った。

「エリヤ、お前には量子テレポーテーションの実用化を任せる。期限は二ヶ月だ」

「二ヶ月……」

「無理だと言うなら、今すぐ帰れ」

「……いや、やる」

 エリヤは、決意を固めた。

「必ずやる」

 その夜、エリヤは地下から地上へ戻った。

 完璧な空の下。完璧な秩序の中。

 だが彼の心には、初めて希望が灯っていた。

 娘を取り戻すことはできない。妻を取り戻すこともできない。

 だが、未来の誰かを救うことはできる。

 それが、彼の新しい理由だった。

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